「あなたは中文が分かりますよね?」 - 竜岩・中国 2003

 - 福建省・竜岩

 結局、杭州と上海合わせて15日も滞在する事になってしまい、そろそろ先に進まねば、と言う事で次は上海から福州へ向かった。12月26日の金曜日、16時31分に出発した列車は夜通し走り、翌朝の9時45分に福建省の省都・福州へ到着した。

 福州は省都だけあって大きな街だ。安宿を探してみたがどこも200元(約3,000円)近くする宿しか見つける事ができず、結局この街に滞在する事は諦めた。一旦駅に戻り次の目的地であった竜岩市までのチケットがその日の夜取れたので、結局荷物を駅に預け、身軽になったところで福州を1日だけぶらぶら歩くことにした。

 余談であるが、中国の駅にはどこでも荷物預かり所があり、当時、1回5元(75円)程度で預かってくれるのでよく利用した。日本にもよくあるようなクロークタイプで、大体が駅のすぐ横にあり、カウンターでバックパックを渡しお金を払うと引き換えの札のようなものを渡してくれるというシステムで、荷物の盗難や紛失もなく安全・安心のシステムであった。

 福州は結局のところ見所も特に探せず、西湖公園というのを地図で見つけ、日がな1日そこでのんびり、うとうと・・しながら過ごした程度である。

 その後、再び駅に戻り福州発の列車、21時01分の寝台列車(硬臥の2等寝台だ)に乗り込んだ。
 
 中国の寝台のシステムはよく出来ていて、列車に乗り込んで暫くすると服務員と呼ばれる乗務員がやって来て、紙で出来た私の切符をまず確認し、彼女(大体が何故かいつも女性の服務員だった。)が持参したバインダーのファイルみたいなものに私の切符を入れ(ファイルの中は各ベッド番号毎に区分けされている)、代わりに私のベッド番号のところにファイリングされている引き換え券を渡してくれる。

 この引き換え券が大事なので、最後まで無くさないように持っておこう。

 そして、到着駅近くになると再び服務員がやって来て、私の紙の切符を返してくれるので、この時に最初に渡された引き換え券を服務員に返す。 - そう、これで自分の切符自体を紛失する事もないし、何より自分の切符が戻って来た時、次の停車駅が自分の降車駅だと確認もでき、乗り過ごしを防ぐ事が出来るのである。中国の列車は何てシステマッチックなやり方だ!

 
 私はこの時点で何度も中国の列車に乗っていたのでこの最初の服務員とのやり取りには慣れていた。が、この列車では何故か乗客みんなに切符と一緒に身分証明書の提示も一緒に求めれており、私は最初、服務員が何を言っているのか理解できなかった。 - 「パスポート」という中国語の単語は知っていたのだが、他の単語、例えば「身分証」みたいな単語は知らず、切符以外の提出をこれまで求められた事もなく最初、ん?という感じで対応していたら、周りに居た他の乗客が、「ID、ID」と言ってくれてそれで理解できた。

 そして、それをきっかけに周りの乗客にも私が日本人と言う事が知れ渡り、何故か俄かに活気づいた - 「お、外国人が居るぞ、珍しい!」と言った感じで話しかけてくれるおじさんが居たり。。何と言ってもここは竜岩市行きの列車である。普段あまり見かけない外国人が居るのも珍しいのだろう。

 
 暫くするとちょっと離れたコンパートメントから1人の女性が近づいて来て、彼女のノートにこう記した。「你知道中文吗」-中文と書いたかどうか記憶がちょっと曖昧なのだが、要は「あなたは中国語(漢字)が分かるよね?」という意味だったと思う。

 そう、これは意外かもしれないが中国人の中には我々日本人が漢字を知っていると言う事を知らない人が沢山居る。70年代位まで外国人の受け入れを拒み、そして何よりもTVなんかでも外国の情報を流すのが少ないというのがその理由であると聞いた事がある。- なので、私が筆談で中国人と話しているとよく「お前は中国に来てどれくらいだ?」と聞かれる事があり、「1ヶ月ちょっとだ。」みたいに答えると、「何と!1ヶ月ちょっとでこんなに中国が書けるなんて、お前は天才に違いない。」-と言うようなやり取りが2度,3度あった。

 そんな中で、彼女は日本人の私が漢字を知っていると言う事を知っていた。福州大学で「行政管理」と言う何やら難しい学問を学んでいるという彼女の名は李琼と言い、この列車に乗って実家の竜岩市へ帰省するところだと言う。

 李琼は以前、TVで日本の事を知り、そこで観た日本の着物や桜がとても美しく、それで興味を持ち日本の事を色々と調べたと言う事であった。彼女との筆談のおかげで夜行列車は退屈する事なく、彼女や他の乗客と色々と筆談で話を楽しむ事ができた。(残念ながら李琼は全くと言っていい程英語は話せなかった。)それにしても筆談は偉大である。

 翌朝7時10分、列車は竜岩駅に到着した。駅に降り立ったはいいものの、周りに宿やバス亭らしきものは見当たらない。私が持っている中国版の路線図には各街の地図も載っていたのだが、ここ竜岩市は小さな町の為か、竜岩市の地図自体、掲載されていなかった。

 どうしたものかと思いながら取り合えず駅を背にして歩いていると昨夜知り合った李琼が丁度私の左斜め後ろを歩いていた。彼女に筆談で「どこか安い宿を知らないか?」と聞いてみると、彼女は私のノートにこう記した。
 
 -「你可以到我家玩」

そして続けて「竜岩小吃」と書き記し、その言葉の下に線を引いてくれ、更にこう書き記した。
 
 -「去看看普通的竜岩家庭」

 何と、昨夜知り合ったばかりと言うのに彼女の実家に招待してくれるという事であった。そんないきなりの親切心に甘えていいものかと逡巡したが、何処に何があるか分からないような状況でもあったし、結局彼女の申し出に甘える事にした。
 
 この時の彼女の親切心-私はずっと忘れる事はないだろう。

 近くに止まっていた赤いタクシーに2人で乗り込み彼女の実家へと向かった。

 この時見た景色 - その後台湾を訪れた際、バスに乗っていたりするとふと、「あ、あの時竜岩で見た風景に似ているなぁ」とたまに思う事がある。特に台北市内から九扮辺りに行く時にそんな事を思い出したりしたものである。

 家の前には彼女の母親が出迎えてくれていた。彼女はタクシーを降り、ばたんとドアを勢いよく閉めると母親に二言三言何やら話した。その中で「リーベンレン」(日本人)という単語だけ聞き取れたので、彼女は私が日本人であり、列車で知り合った事を母親に伝えたのであろう。実の娘が帰省したと思ったら、いきなり得体の知れない日本人と一緒であったにも関わらず、母親は全く動じる事もなく、「よく来たよく来た」という感じで、家の中に招き入れてくれた。

 朝ごはんはスープとマントウ(具なし肉まんのようなもの)であった。ご飯を食べた後はお湯を張った洗面器とタオルを貸してくれて、それでさっぱりとした。その後、市内観光だ!お寺にゆこうと誘われるままに、バイタクに乗って地元の寺院を訪れて一緒にお参りしてきた。-ここもやはり、台湾のような(この時点ではまだ台湾に行ったことなかったので私がイメージする台湾だ)極彩色豊かなお寺であった。

 市内観光から帰って来ると昼食を準備してくれていた。- 至れり尽くせりで本当にいくら感謝しても感謝しきれない。昼食は李琼の母親自慢の水餃だった。母親は山東省出身らしく、餃子は山東省発だと言う事もこの時、初めて知った。中国の家庭料理の水餃は当たり前だがとてつもなく美味しく、これは今まで私が食べた水餃の中でもNo.1であり、いまだにこの味以上の水餃は無い程の美味しさであった。

 
 本当に短い期間だったが、これぞ一期一会と言うか旅の出会いとでも言うか李琼とその家族には大変にお世話になった。

 李琼家族に別れを告げ、またバイタクに乗り込み、私は彼女達が紹介してくれた宿へと向かった。

 

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