- 上海
博多港から釜山に渡り、韓国を縦断し仁川港から更に船に乗り中国へ、それから西へ南へと旅を続けて中国の内陸部-武漢までやって来ていた。中国の次は東南アジアのベトナム辺りに行こうと思っていたので、本来なら更に西進するか南下するのがルート的に効率がいいであろう。 - しかし、私はここで一気にルートを東に取って12月9日、17時20分発の寝台列車に乗って上海へ向かった。
上海には以前一緒に仕事をしていた友人のQさんが年末を利用して遊びに来ることになっていた。彼は年齢は私の丁度一回り年上で、若かりし頃ユーラシアを横断しイギリスまで行き、そこで何年か滞在し仕事をしていたという経歴を持っていた。
中国の長春にも留学経験があり中国語も堪能、そしてこの年の1年程前に上海人の女性と結婚し、夫婦共々年末に上海に帰省するとの事であった。
取り敢えず年末に・・・という連絡だけを貰って正確な日程はまだ貰っていなかったが、上海では彼等の家(正確には奥さんの実家)に泊めてくれるという事であったが、彼等と落ち合うまではこの時代、上海のバックパッカー達の間では有名な浦江飯店(プージャン飯店)という安宿に滞在する事にした。浦江飯店は1846年に建てられた格式高い - 見た目には高級な - ホテルなのだが、何故かここには共同部屋(ドミトリー)があり、1泊55元(約800円程度)で泊まれると言う不思議な部屋割りのホテルであった。
この当時、大阪や神戸から船で上海までやって来るバックパッカーはとても多く彼等の多くはこの宿に宿泊していたという、この時代、上海を旅していた旅人達の殆どはその名前を知っているような宿であった。
残念ながら現在はホテルは現存しているもののドミトリー部屋はなくなったようである。
武漢からの列車に乗って直ぐ、目の前に座っていた20代くらいの女性が瓶詰めのナタデココが入ったフタを一生懸命開けようとしていた。フタはとても硬いらしく彼女の力では空かず、諦めて私に瓶を差し出して、何やら中国で言ってきた。推測するまでもなくフタを開けて欲しいのだと思い、きゅっと一捻りするとフタは簡単に開き彼女に手渡した。これが上海っ子の李娜(リーナ)との出会いであった。
彼女は私が日本人だと分かるととても流暢な英語で話してくれ - 職業はジャーナリストだった - これまでの旅では英語を話せる中国人に出会った事がなく筆談ばかりだったので久し振りの人との会話だ - 中国の事、日本の事、これまで旅してきた事など色々と話をする事ができた。
上海に着く直前になって私がこれから浦江飯店というところに行こうと思っているが、場所は知ってるか尋ねたところ(これを書いてて思ったのだが、私は北京で別れた高校の同級生の繁樹に浦江飯店と言う名前だけは教えて貰っていたのだが住所も何も知らなかった。一体どうやって行こうと思っていたのだろうか。。)、リーナは友達に電話を掛け、大体の場所を特定し、行き方を教えてくれた。
リーナと彼女を駅に迎えに来ていた彼氏の金くんとは私が上海に滞在中に1度だけ再会し、2人は吴江路という所に私を連れて行ってくれ、食事をご馳走してくれた。
その時、2人とは上海の人民広場で待ち合わせをしたが、20分経っても現れず日にちを間違えたのかと思い、電話でもしに行こうかと歩きかけたところ、背後からリーナが「Yamasaki Shin!」と大きな呼びかけてきた。そうそう、彼女は私を呼ぶ時は何故かいつもフルネームだった。
さて、Qさん夫妻が上海に来る日程が決まった。 - 何と12月20日からだと言う。1週間以上も先である。それまで時間がかなりあるので、中国ビザの延長がてら杭州へ行く事にした。- 2003年時点では中国ビザは滞在2週間以内は不要であったのだが、私は1ヶ月ビザを長崎にある中国領事館で取得していた。- そう、ビザは大阪や東京のような大都市で取得できるのが普通であるが、中国ビザに関しては長崎でも取得する事ができた。
杭州へは上海から列車で3時間の旅である。ここには3泊4日ほどの滞在予定であった。到着翌日に早速公安に出向きビザの延長に出向いた。 - 係員は1人だけしかおらず、何だかちょっぴり機嫌の悪そうな若い女性であった。その彼女に恐る恐る漢字で「我想延長签証」と書いた紙とパスポートを手渡すと、彼女はその漢文を声を出してゆっくりと読んだ後、くすっと笑い、「OK,you want to extend your VISA.」と笑顔で答えてくれた。そうか、ここは外国人相手にビザ延長などの処理をしてくれる場所であるから係員は当然英語を話せるのか。
しかし、私の漢文作戦のお陰か(私は至って真面目に筆談でやろうと思っていたのが)、終始和やかに処理してくれ、「OK,それじゃ5日後にパスポートを取りに来て。」と言ってくれたが、「私が明後日にはもう上海に行ってるんだ。」と言うと、「OK,それじゃ明日で大丈夫。明日取りに来て。」とあっさりと受取日を変更してくれた。
杭州では他、特にやる事もなく有名な西湖を見たり、上海の宿で知り合った旅人が私が杭州に行くと言うと、彼も時間を持て余していたのか、後日、杭州までやって来て合流、夜は共にBarで飲んだりして過ごした。あの頃の杭州は(今はどうだか不明だけど)、とっても洗練されていて、印象としては上海なんかよりずっとお洒落だった記憶がある。
12月21日(日)、11時半にQさんは浦江飯店にやって来た。説明しなくとも彼もこの宿の事を知っていた。レセプションで得意の中国語で色々説明し、ドミトリーまで来てくれた。そして、私を見るなり「久し振り!」とか「元気?」と言うでもなく開口一番、「ヤマ(彼はいつも私をヤマと呼んでいた)、ズボンが汚ったないなー。」と言った。嘗ての旅人・Qさんにそう言われる位だから相当汚れていたのだろう。。
そんな汚い格好をした私をQさんとQさんの家族は受け入れてくれ、奥さんの実家には5日間もお世話になった。
久々の再会を喜び、共に美味しいものを食べ、お酒を飲んだり、そして上海で有名な豫園へ出掛けたりなどした。
北京を出てから10日間ほど日本人どころか1人の外国人旅行者とも出会わなかった。上海まで来ると季節も幾分温かくなり、沢山の旅行者や現地の人々などとも出会い、みんなに本当に親切にしてもらった。
上海では特に何をしたという訳でもないが、結局15日も滞在する事となり、上海の事を思うとあの頃見た古い街並みや、リーナのちょっと変な発音で「Yamasaki Shin!」とフルネームで私の名前を呼んでいた事なんかが懐かしく思い出される。