麗江古城で、ナシ族の人々との出会い - 麗江・中国 2005

 ここまで中国の青島からずっと列車で移動してきた訳であるが、大理から先は列車が通っていない為、ここからはバス旅になる。

 10:00AM大理発のバスに揺られること3時間、13:00丁度にバスは麗江に到着した。出発する時は雨だったけど、麗江に到着すると見事に晴れ渡ってくれた。

 ここ麗江も私はひっそりとした小さな町と思っていたが、長距離バスターミナル周辺にはそれなりの規模の町が広がり、中国の発展ぶりが伺える。通りのあちらこちらで小さな土鍋のようなものに入った料理が作られている。あれはきっと雲南名物の雲南過橋米線という米の麺料理だろう。

 取り敢えずその米線を頂き、ローカルにバスに乗っていざ麗江古城へ。

 麗江は標高2,400mに位置しているのだが、不思議と高地に来たというイメージはあまり感じられない。ここにはナシ族と呼ばれている小数民族が住み、彼らは古くからトンパ文字と呼ばれる象形文字を使っている事でも知られているが、今ではトンパ文字を使える人も少なくなってきていると言う。

 古城内は石畳が敷き詰められ、その側を小さな小川が流れ、小さな店の軒下には赤い提灯が飾られているという風情ある町だ。

 ここでは四合院と呼ばれる中央に方形の中庭がありその周りをぐるりと家の棟が囲んでいる伝統的な宿に泊まる事ができ、それだけで旅気分を盛り上げてくれた。

 麗江到着の翌日、白沙(バイシャー)と呼ばれる村へ出掛けてきた。雲南の山々と草原に囲まれた村にはナシ族の方々もちらほらと見かけ、麗江とはまた違い、落ち着いた雰囲気の村ではあったが、それ程、多くの人とは出会う事もできず、ちょっと寂しい感じでもあった。

 石鼓(シーグー)は麗江から1時間ほど離れたところにある長江沿いに広がる町だ。

 約1年半ほど前に更に下流にある三国志の舞台ともなった赤壁を訪れたことをふいに思い出し、「この河をずっとずっと下って行くとあの場所に辿り着くのだな」などと不思議な繋がりを感じたものだ。

 少し小高い丘から見下ろすと、日本の屋根瓦の家並みの風景が広がりとても懐かしさのある光景だ。

 町の一角、古びれていい感じを醸しだしている中華門をくぐるとつり橋が架かっている。門の袂には地元ナシ族の老人達がおしゃべりし、橋の上からは若者たちが河へダイブして遊んでいる。カメラを向けると若者たちは恥ずかしがって、正面からは撮らせてもらえなかった。みんなシャイな子たちのようである。

 その近くでは頭にアヒル?!を載せたおばさんがそろりそろりと歩いているという何とも摩訶不思議なところであった。

 ー ある日、麗江の古城内を歩いていると1人のナシ族の女性と出会った。私が今泊まっている四合院の宿の話をすると偶然にもその女性は宿のオーナーの奥さんであった。

 この時、彼女とどんな会話をしたのか、今となってはさっぱり思い出す事ができないのだが、1つだけはっきりと覚えている事がある - それは、彼女とひとしきり色々と話をして、別れようとした際にトンパ文字である言葉を紙に書いて渡してくれた。それは中国語で「慢走」-「お気をつけて」という意味のような言葉であると教えてくれた。

 絵画的なその文字は美しく別れの挨拶にぴったりな言葉だな、と私は思った。